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住職より皆様へ

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住職の佐々木教道(ささき きょうどう)と申します。

「ノードストローム・ウェイ」という本をご存じでしょうか。アメリカの「ノーと言わないデパート」の話なのですが、例えば売っていないというものであっても隣のデパートに行って買ってきて、同じ値段で提供する。「これありますか」と言われて「ないと言わない」ということをポリシーとしているデパートです。これを読んだときにそれはサービスとしての一番丁寧なやり方だと思いました。お寺としてもなるべく「お寺がこうであってほしいな」と思われていることを具現化していくことも考えなくてはいけないのではと思います。「教え」を伝えるのはもちろんの事、地域のこと、心のこと、お寺でしかできないことを提供しながら、きちんとお寺が成り立っていければいいなと思っています。地域での問題、家庭の悩みを即座に解決するのは容易なことではありません。ですが、お寺はその様々な問題に一緒に悩み考えていくことが必要だと考えています。

そこで、妙海寺では「漁業の後継者不足」や「過疎と地域活性」など地域に起こる様々な問題に取り組めるように「大人の学び舎」という勉強会を開いています。大人の学び舎では、お寺という利害関係のない場所で、地域に対して必要かつ正しい知識を得ることができます。そして、真剣に地域のことを話し合う事が出来、その中で自然と生まれてくる「助け合いのコミュニティー」があります。「寄り添う」というスタンスの地域活性化はお寺だからこそできることなのかもしれません。

またそんな活動をしている中、お寺にがっかりしている人もよく見てきました。それはお寺やお坊さんが人に「寄り添う」ということが欠けているということだと思います。友人の葬儀や通夜に行って「お坊さんってそうじゃないでしょ」と感じることって多々ありませんか?儀礼だけをただ美しくしているところや、それすら美しくないようなところもあります。そうしたことが多いことから、「お寺というものも仏教も宗教ももういらない」と思っている人が多いのだと思います。しかしそこでお寺やお坊さんが「寄り添う」ことで、「お坊さんて温かい人なんだ」「仏教って素晴らしい教えなんだ」とちょっとでも伝えられたらと思っています。

現代では、お坊さんに寄り添ってもらっているという感覚がないからこそ、お寺に人が来ないという「三離れ」という言葉が生まれたのではないでしょうか?自分の立場ばかりを主張し、寄り添ってくれないお坊さんはもう要らないという事もみんなが思っている事です。それは、葬儀を行わずに火葬だけをする「直葬」と言われる葬儀形態が急増している事にも表れています。
ですが、仏教や寺に全く期待をしてないわけではなく、むしろ期待は大きくなっているようです。
東日本大震災を経て、弔い、死など人生の一大テーマのなかでお坊さんが寄り添ってくれる安心感は誰もが必要なことだと強く感じています。

仏教というもの自体、一人ひとりの心にお釈迦様が寄り添ってくれているお教えです。どんなにくだらない人間でも、「時には厳しく、時には優しく」どう生きていけばよいのか寄り添ってくれているのが「法華経の教え」だと思います。コミュニティーや家族が崩壊しつつある「無縁社会」の中で、人はどんどん孤立しています。たった一人で寄り添われる人もなく生きていくというのは辛いし、大変なことです。

幼少期は親が寄り添ってくれています。しかしどんどん大人になっていくにつれて寄り添ってくれる人がいなくなっていく。死ぬときは絶対に一人です。そこに対して誰が寄り添うのか、そこに寄り添えるのは宗教者しかいません。誰かが亡くなってあたふたしているところに誰もなんて話したらいいのかわかりません。そのときに、宗教者であればこそご遺族に寄り添えるのだと思います。何か施しをしてあげる、というような上からの目線ではなくて、同じ視点に立って共鳴をするというのでしょうか、同じ場所で響いていくという作業が寄り添うということです。そのことでしか教えは伝えられないと思うし、人も感じないと思います。寄り添う事がなければ暖かみも感じません。私やお寺が地域やそこにいる人に寄り添うということで、「お釈迦様がいつもそばにいてくれている」という事も多くの人々に伝えていきたいです。