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応援メッセージ その2

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公開日:2020年11月24日

この海洋葬に関しての思いを綴って頂いたレポートを紹介しています。

2人目の方はこの同時期にクラウドファンディングに挑戦している僧侶、大慶寺 住職 大場 唯央 さんです。

はじめに

「海洋葬」。はじめに教道さんから、この「海洋葬」のビジョンを伺ったのは昨年だったと思う。この時に感じたのは「なるほど!妙海寺ならそういう散骨ができるのか!むしろここにしかできない供養の形だ」と素直に感じた。

それは「海洋葬」という「やり方」だけではない、妙海寺の立地ももちろんだが、教道さんのお坊さんとしての「あり方」にぴったりだと思ったからだ。

実は、僕はそもそも「散骨」に対してあまりよいイメージがなかった。それは「散骨」に対するイメージというよりは散骨を選択するまでの「意思決定プロセス」に対する思いなのだと思う。

 

仏教では散骨をどう扱うのか

そもそもよく散骨に関して「仏教としてはOKか?」という問い合わせをよくいただく。この質問に関しては教的には何も問題はない。仏教には「人の死後の遺体はこうしないといけない」という明確な決まりはないし、お釈迦様の時代のインドもガンジス川に流していたりしていたのが通例である。

現在においても、アジア諸国の仏教国においても、お墓という概念はない地域もある。つまり埋葬法は仏教が決めるもの、ではなく仏教が根付いた「地域」によって委ねられている。

だからこそ、気をつけなければいけないのは「散骨は仏教的にNG」なのではなく、「現在の日本の死生観として散骨を受け入れられない人がいる」という事実であるということだ。日本人にとっては長い長い歴史の中で、「遺骨」は故人の象徴であり、何よりの「よすが」として捉えられてきた。

 

意思決定プロセス

さて、このように散骨の「やり方」に関しては、私は反対ではないのだが、散骨にいたる「意思決定プロセス」に話しを戻る。「散骨したいんですけど」というお問い合わせをいただく時に、詳しくお話を伺うと、多くの人は「自然に還りたいから」ということを先ず口にする。

しかしながら対話を深めると、その裏には「安いから」「迷惑をかけたくないから」「簡単で、後が楽そうだから」という想いがある。

つまり、思想的背景で散骨を選択しているわけでもないし、ポジティブに選択もしていない。もちろん従来の埋葬法が完璧ではない。家族形態も変わり、社会も変化していく上では、埋葬のあり方も変容してしかるべきだと思っている。しかしながら「能動的な選択」として「散骨」を選んでいる人は多くないように感じる。

そして何より気をつけなければいけないのは、「本人が散骨を希望していたとしても、ご遺族は必ずしも賛成ではない」という場合があるということ。「ある」というか「圧倒的に多い」と思える。「産湯につかることと、棺桶の蓋を閉めることは1人ではできない」という言葉があるように、葬送には「送る側」と「送られる側」の双方いて、初めてなりたつものだ。

もちろん送られる側の意思は十分尊重されるべきではあるが、送る側の気持ちも汲んで意思決定をした方が、より良い関係性で送ることができるのではないかと思う。

 

迷惑をかけたくはない

その中でも1番良く聞くのが「迷惑をかけたくないから」という理由だ。しかしながら「本当に迷惑かどうか」は、残された方が感じることであるし、散骨して手を合わせす対象も全くなくした場合、縁ある人の“よすが”がなくなってしまう。

そして、私たちの心は「諸行無常」。コロコロ変わっていく。今・この瞬間は「良い」と思っていることでも数年後には変わっていることが常なのだ。仮に、もし残された側が、最初は「供養はめんどくさい」と感じていたとしても、その残された本人も家庭を持ち、子どもが授かったりなどすると、「親に対する考え方」が変わることも十分にありえる。「供養は迷惑がかかる」という一方的な理由で決めるのは望ましくないと思う。

 

「正論」を振りかざさない

しかし、どうだろう。今私が申し上げた事は「お坊さんとしての正論」であるわけだが、事実「迷惑をかけたくない」という理由で「散骨」を希望する人には「そのひとなりの不安」があることも事実だ。本心は「できれば供養はしてもらいたいが、いやいや供養されるのではれば、供養やお墓の管理をしなければいけない環境をつくりたくない」と言うのが、「迷惑をかけたくない」という言葉の真意ではないだろうか。

だからこそ、正論を持っておく一方で、その「不安」に寄り添い「与楽抜苦」をする中道を実践するのが僧侶の実践。

今回の「海洋葬」の話しを聞いたときには、従来の「散骨」のイメージを一新し、「ここが良い」という能動的な選択が出来ること、そして申込み者の不安を取り除くと同時に、残された方の「供養する」場を奪わないようにデザインされていると感じた。

全ての供養をお寺で行うような永代供養ではなく、残された方が供養したい人は供養できる「余白」を残してあると言うこと、そして万が一供養が出来なくなった時には、お寺が勤めるということ。

主体性を育みながらも、その場に対する安心感を与える。まさしく教道さんが日々実践されてきた「あり方」とリンクする。

 

久遠の“いのち”を守ること

「人は2度死ぬ」という言葉を聞いたことがあるかと思う。1度目は肉体的な死。呼吸が止まり、心臓が止まること。このことは我々必ず起こりうること。

そして2度目の死はすべての人の中でその記憶がなくなる時。つまり社会的な死だ。そういう意味では卑弥呼もナポレオンなどの歴史的偉人は死んでいないのかもしれない。

そして僕は、3度目の死があると思う。それは故人の「記録」がなくなるということだ。お寺というのは、そのお寺で葬儀を勤めた方の「記録」を代々守ってきているのだ。生年月日、命日、続柄、そしてなにより法号(戒名/法名)がある。法号(戒名/法名)はその人の生前のどのように生きてきたがが反映されている。だからこそ、お寺を護持するということは、今までお寺と縁を結んだ全ての故人の“いのち”を預かっていることになる。

そしてお寺ご護持することに必要なことは、そのお寺を大事に思ってくれる「人」がいることだ。そしてこれは「1人の人間」ではできない。なぜならば人にも寿命があるからだ。「菩薩づくりでまちづくり」を目指す妙海寺のこの海洋葬の取り組みは、まちづくりであるのと同時に、妙海寺の縁ある人の“久遠のいのち”を守る壮大な事業ともいえる。

そして“久遠のいのち”を守り続ける人たちがいる限り海洋葬の持続可能性は担保されるであろう。